「牛久大仏様がみてる」
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巨大構造物と少女シリーズ第四弾。
牛久大仏は茨城県にある全高120mの阿弥陀如来像である。
像高だけでも100mという巨大さだが、これでも立像としては世界で3番目。しかし日本ではナンバーワンに間違いなく、巨大建築シリーズの題材として採用することにした。
さてこのイラストの牛久大仏だが、仏像に詳しい人が見ると何か違和感があることだろう。その違和感の正体は「右手と左手」。
仏像はなにがしらの手の形──印契や印相と言う──をしており、牛久大仏は「来迎印(らいごういん)」という印を組んでいる。親指と人差し指で輪を作り、「右手」は上に、「左手」は下に。これはひとびとが臨終の際に、阿弥陀如来が極楽浄土から迎えに来る時の手の印であるという。私は信徒ではないが、生涯を終えたときにこの巨大な牛久大仏が迎えに来ると想像すると、その場で失神しそうだ。
話を戻すと、このイラストでは大仏さまが窓に写っている構図なので、右手と左手が逆になっている。あえて意図した左右の入れ替えを行ったわけだが、世の中には右と左を間違えると意味が違ってくることもある。例えば着物の着方である「右前」「左前」がそうだ。数年前にそれに関してイラストを描いたことがあるので詳しくはそれを参照してほしい。
夏祭りで残念な浴衣美人が多かったので描いてみた。 pic.twitter.com/sBlCygi8jp
-- 宗像久嗣 (@munakata106) 2014年7月26日
このルールは養老3年(西暦719年)に施行された服飾に関する令がはじまりだと言われている。増田美子著「日本衣服史」によれば、それ以前は逆に左前が主流であったが、当時の中国である唐が「左前は蛮人の風俗」として軽蔑しており、日本もそれに倣って右前に統一したのだという。よく左前の着方を「死人の着方だからだめ」とか「死装束だからだめ」と言ったりするが、上記説を全面的に信用するならそういう理由が起源ではなさそうだ。しかしそれ以来、実に千年以上もルールに従ってるのは律儀というかなんというか。
現代では実は、必ず右前にしなくはならないという理由はほぼない。右利きが帯をしめるときに前で絞めてから右に回すとやりやすいこと、そもそも右ききが多いこと、着物の柄が左前面に美しく出るように織られているなどの場合を除くと、どっちでもよいルールだと個人的には思っている。自分で左前の漫画を描いておきながら何だが、そのうち左前も許容される時代が来るのではいだろうか。
だが、何かの機転や大きな理由がないとそれも変わらないだろうとも思っている。何かの変更をするにはパワーを要するからだ。その好例として、右と左が入れ替わった「ダゲン・H」を紹介しておく。
1900年台のスウェーデンでのこと。従来の車の交通が左側通行であったところを右側に変更する案が出ていた。その理由としては、近隣諸国が右側通行のため国境で左右が入れ替わることになっており、事故が続いていたからである。じつに40年間もの間右画にすべきか否かの議論がなされ、1955年の国民投票では右側通行に83%が「反対」。しかし右側変更には大きなメリットがあると判断され、4年もの準備期間を経て1967年に実施された。その当時の新聞がgoogleニュースアーカイブにも載っている。
https://news.google.com/newspapers?nid=Fr8DH2VBP9sC&dat=19670905&printsec=frontpage&hl=en
昨今の日本であれば地デジ移行のキャンペーンがイメージしやすいだろうが、かなり大がかりのキャンペーンを実施していたという。右側通行を意味する Hogertrafik の頭文字「H」を象徴としたロゴを掲げ、あらゆる商品のパッケージにロゴを掲載したり、右側に変わるぜという「"Stick to the Right, Svensson"」といテーマ曲を作ったり、大変ではあったようだ。だがそのおかげか、当日は多少の混乱はあったものの数週間で落ち着いたそうだ。
大仏様の話題からは大きくそれてしまったが、左右に関する話題はなかなか面白い。