ほんまにおったんかいな地獄太夫
投稿 / 初出 Pixiv
このイラストのモチーフにした「地獄太夫」とは、室町時代に「実在した」と言われている遊女である。
名前のインパクトもさることながら、「実は武家生まれだったが山賊に捕らわれて遊女になった」「地獄模様の打掛(着物)を羽織って念仏唱えながら客を迎えていた」「絶世の美女」といった魅力的なキーワードが並び、一休さんこと一休宗純とも関わっていたともあってわりと有名な人物である。日本画として描かれていたり歌舞伎としても演じられており、現代でも小説や映画のキャラクターとして登場していることがある。
イラストを描くにあたって、実際の地獄太夫とはどんな姿だったのか、それを一度確認しておきたいと色んな資料を調べてみたのだが、どうもその正体が掴めない。素人で歴史に対する検証方も詳しくないのだが、幾つかわかったことをここでまとめておきたい。
地獄太夫の簡単な生い立ち
まずは地獄太夫 - Wikipediaに書かれている概要だと
如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、泉州堺高須町珠名長者にかかえられた。現世の不幸は前世の戒行がつたないゆえであるとして、みずから地獄とよび、ころもには地獄変相の図を繍り、こころには仏名をとなえつつ、口には風流のうたをうたったという。(中略)若くして亡くなったが、最期を看取った一休は、泉州八木郷の久米田寺に塚を建てて供養したといわれる[1]。
とある。しかしながら出典は「江戸諸国百物語 西日本編 (ものしりシリーズ―諸国怪談奇談集成) 」という2005年に出版された本である。図書館で探したが残念ながら無かった。というか地獄大夫って怪談扱いなんだ...。
では、初めに地獄太夫の名が出てきたのはどの本なのだろうと探すと、17世紀に編集された本であることがわかった。
文献1「一休関東咄」
地獄太夫の名が初めて記されている(と思われる)ものは、1672年に編集された『一休関東咄』(編著者不明)下巻にある「第七 堺の浦にて遊女と歌問答の事」。この名前でググれば翻訳したものが読めるが、あらすじだけ書く。
「一休が現在の大阪の堺を訪れたところ、その地の遊女屋に居た地獄太夫という女から『なんでこんな遊女の地に来てんねん。坊主が来るとこちゃうわ』と手紙が来た。一休は『坊主とも思ってないからどこに来ようが勝手』と返答したという。こんな手紙をよこす遊女とはどんな奴だろうと一休が遊女屋を訪れると、そこには絶世の美女が。『聞いてはいたがこれほどの美しい地獄とは』と一休が歌うと、『死んで人が地獄に落ちない者がいないように、ここにきて私に惚れないものはいない』と返したという」
原文は早稲田大学の古典籍総合データベースから確認した。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_02010/index.html
歌の訳は私的解釈を含めているので原文を見て感じてほしいが、書かれているのはたったこれだけである。山賊に捕らわれたとか、どこかに祀ったというのは何処に書いてあるのだろう? さらに調べると、『一休関東咄』から130年も経って書かれた本に記述があることがわかった。
文献2「本朝酔菩提全伝(ほんちょうすいぼだいぜんでん)」
江戸後期に活躍した浮世絵師の山東京伝(1761~1816)が、1809年に刊行した『本朝酔菩提全伝(ほんちょうすいぼだいぜんでん)』に、一休と地獄太夫の逸話が書かれている。
こちらも同データベースから原文を確認した。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03047/index.html
巻四・五巻にある「地獄信解品第七」に、地獄太夫の記述や、『一休関東咄』で書かれている問答も少し改変して書かれている。全文はさすがに読めないが、地獄太夫が死ぬまでの話が数十ページに渡って書かれていることが分かる。
文献の信用性は?
一休宗純は1394~1481年に実在した人物であることは疑いようはない。自らの著書として『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』なども残されている。これらの文献が読めれば良かったのだが時間が無く、他のブログ記事を信じるならこの中に地獄太夫の文字はないようだ。
あらためて文献の時間経過を考えると
1394~1481年 一休宗純
↓
1672年『一休関東咄』
↓
1809年『本朝酔菩提全伝』
という流れになり、『一休関東咄』は一休の死後200年も経って書かれたことになる。ちょうどこの1670年頃は一休の著書が再注目された時期であるらしくて、おそらくどこかの誰かがその流行に乗っかって「これならウケる」と創作したものではないかと私は推測する。いまでいうと朝ドラで再注目された偉人の二次創作同人誌を出すみたいなものだろう。
また、一休が骸骨を持って正月にふらふらと歩き回った話はわりと有名だが、どうもこれも創作なのだという。おそらく一休が64歳の時に刊行した『骸骨』という法話を元にしたのではないか、と「一休が笑う」には書かれていた。そうなると地獄太夫の話も創作の疑いが出てくる。
山東京伝はその創作を元にしているので、これも当然創作。二次創作に影響を受けてさらに創作漫画を描いてみました、みたいなノリだろうか。そう考えると今も昔も文化というのは変わってない気がする。
ところで原文をちらりと読んで気が付いたのだが、明らかにおかしいなと思ったのは地獄太夫を祀ったのが「久米田寺の女郎塚」と書かれている箇所。調べてみたのだが、この古墳は平成13年の発掘調査によって5世紀前半ごろに作られた古墳だと判明している。
そもそも「本朝酔菩提全伝」自体はあくまで読み物なので、歴史に照らし合わせて考証するものではないらしい。
ちょっと余談
地獄太夫が返した歌が二種類散見されるのだが、これは下記の通りである。
しにくる人のおちざるはなし『一休関東咄』
活来る人もおちざらめやも『本朝酔菩提全伝』
なぜ山東京伝は変えたのか。それは知らん。
幻太夫という遊女
ややこしいことに、明治時代に幻太夫という遊女がおり、こちらも地獄模様を羽織って髑髏を抱えたり、念仏を唱えたり部屋に仏壇があったらしい。細かい文献は忘れたので気になったら自分で調べてほしいが、こちらは実在したようだ。世間ではこれを間違って「地獄太夫」と呼んでいることもあるようだ。
私の勝手なイメージだが、幻太夫は山東京伝の創作本を読んで、「このシチュエーション萌える」と、コスプレ感覚で演じたのかもしれない。やっぱり今も昔も変わってないわ。
地獄太夫の日本画も創作
本当に実在していたなら室町時代に地獄太夫の絵が描かれてそうだが、書籍等で調べてもどこにも見当たらなかった。いまこの瞬間にネットで「地獄太夫」とググって出てくる絵などは、幕末~明治頃に浮世絵師が描いたものばかりである。後世に描かれたものなので、当然ながら全て創作である。
また、江戸時代の中でも遊女は髪型が変化しており、江戸初期の遊女はあの簪(かんざし)すらも付けていない。これらは「江戸吉原図聚 (中公文庫) 」にも詳しく書かれてある。 浮世絵Pixivでもあろうものなら「時代考証が違いますね」と嫌味ったらしく指摘されたに違いない。つまるところ、室町時代を描いたにしては、江戸中期~後期の着物の着方・文化で描かれていることになる。
橘小夢が描いた「地獄太夫」という絵があるのだが、髪の毛を結ぶ紐の色が紫色であることから、これは幻太夫を描いているのではないかと言われている(魔性の女挿絵集 ---大正〜昭和初期の文学に登場した妖艶な悪女たち (らんぷの本) )。橘子夢は幻太夫と関係を持っていたらしいのだが(その文献は見当たらなかったが)、付き合ったのにどうして絵のタイトルを地獄太夫にしたのだろう?
遊女の本について
一度遊女の歴史も洗っておくかと「民衆史の遺産 第三巻 遊女 」という本を軽く読んでみたのだが、江戸時代の遊女に関しては資料がたくさん残っているものの、それ以前の資料は殆ど無いに等しいと言う。たしかに現代も江戸の遊郭の本は山ほど多くあるが、それ以外はあまりお見かけしない。これは遊女の歴史を調べるなんて恥、という時代もあったりしてあまり研究が進んでいなかったこともあるのだという。
結論
歴史を調べるにはさらに詳細な調査や文献の信用度なども必要だろうが、私の調べられる範囲では以上までとなった。今のところ地獄太夫の正確な像は無く、創作上の人物であるのが濃厚であった。ただ上村行彰著『日本遊里史』にも記述があるらしいので、だれか調べてほしい。もう疲れた。
だが創作なら創作で私も自由に描いてみようと思った。それだけでも調べた価値はあるってもんである。衣装はもちろん私の完全のオリジナルだし、髪型も江戸の御髪・横兵庫をベースに自己流アレンジしている。あまり描いた絵をベラベラと解説するのも気恥ずかしいので、じっくり見て何かを感じて頂ければ幸い。
あの世で髑髏の男とお面をつけた禿を引き連れた怪しい太夫道中。
絶世の美女と言われた彼女がふと微笑む。その魅力に貴方は抗えるだろうか。
信じる者だけが会える、まさに「幻」の太夫。
※この記事ははてなブログに掲載していたものを再掲したものです。